ノートル=ダム・ド・パリとは

概要

『ノートル=ダム・ド・パリ』(Notre-Dame de Paris)は、フランス人の文豪・ヴィクトル・ユゴーの小説。『ノートルダムのせむし男』や、『ノートルダムの鐘』などの映像作品の原作である。1831年に出版。翌年1832年に3つの章を追加して完成された。

チャールズ・ゴスラン(Charles Gosselin)社が、1831年3月16日に発行。ユゴーはその後、ゴスランからの契約から解放され、ユージーン・ランデュエル(Eugène Renduel)社から1832年12月12日に第2版を発行した。追加された章は、第1版の時に本の厚みの関係から省略されたと言われているが、ユゴーは本作の「1832年刊行の決定版に付された覚書」で、これについて言及し、追加された3章は新しいものではなく、出版の際に紛失したと語っている。

本作は、ユゴーの作品「レ・ミゼラブル」と並んで大変ポピュラーな作品で、フランスをはじめとして映画化・舞台化されている。荘厳なノートルダム大聖堂を背景に、中世の風俗と人間の情熱を骨太の描写で描き、ロマン派文学の典型を築いたと言える。

あらすじ

1482年1月6日の朝。ルイ11世の治世下の時代。パリの街ではこの休日は、無礼講とされ、街の市民も貴族も自由を楽しむ日であった。パリの裁判所では聖史劇とらんちき祭りを楽しみにした市民とフランドルの使節などの人々であふれていた。人々は、聖史劇が上演されるのを待ちわびていたが、一向に上演されない。 そのうちに、らんちき祭りとなり、お祭り騒ぎとなり、らんちき法王を選ぶ行事が行われるが、これはもっとも法王にふさわしくない人物を法王に選んで、教会や宗教を愚弄する催しであった。そこでらんちき法王に選ばれたのは、カジモドというノートル=ダム大聖堂の鐘撞番であった。祭りで踊りを披露して注目を集めた美しいジプシーのエスメラルダ、カジモド、このカジモドを拾い育てた聖職者クロード・フロロー、聖史劇の詩人グランゴワール、王室親衛隊長のフェビュス、彼らを宿命の物語へと絡めていく。

 宿命『’ANÁΓKH』からはじまる物語

この物語の序文として語られた作者が見つけた聖堂の塔の片隅で見つけた文字。ギリシア文字で、刻まれていた『ANAΓKH(アナンケー)』の文字は、いつの間にか誰かに削られたのか、はたまた壊されたのか、なくなってしまった。この文字を書いた人物の宿命とはどのようなものだったのか解き当ててみようと努めた。人々の暴動、建築物の破壊が繰り返されると共に忘れ去られぬようにとこの物語を著したとしている。

大聖堂との関係

ノートルダム大聖堂は、1830年代当時荒廃していた。1789年にフランス革命の中で「理性の神殿」とみなされ、破壊活動、略奪が繰り返されていた。占拠され、暴動に巻き込まれ、王のギャラリーにあった彫刻の頭部が地上に落とされた。1804年にはナポレオン1世としての戴冠式が行われ、その時に一部は修復された。しかし、1830年の7月革命で、暴動の標的となり、多くの損傷を抱えた。ユゴーが本作で語る建築物の破壊とは、これら一連の流れを指しているのだろう。民衆の時代の到来を感じながら、その行動に対して強く批判を示した本作の影響は大きく、国民全体に大聖堂復興運動の意義を訴えることに成功し、1843年、ついに政府が大聖堂の全体的補修を決定した。1844年、ジャン・バティスト・ アントワーヌ・ラシュスとウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクに委任が決まり、1845年に修復が開始され、1864年に修復は完了した。

出版までのあゆみ

1828年、パリの出版社、 チャールズ・ゴスランは、スコットランドの作家ウォルター・スコットの歴史小説が流行したことから、ヴィクトル・ユゴーにこうした流行小説を書くように依頼した。特に、ウォルター・スコットのクエンティン・ダーワードで描かれたルイ11世の治政下の設定は当時人気があり、ゴセリンはユゴーにルイ11世を登場させることを約束させた。1829年までに完成予定だったが、1830年に初演されるエルナニをはじめとする文学活動のために、ユゴーは小説に取り掛かるのが遅れた。このことはゴセリンとの関係を悪化させたといわれる。こうしてユゴーが1830年にこの小説に取り掛かったころ、七月革命が勃発。制作が中断されてしまうが、その後は獅子奮迅の執筆ぶりだった。そうして1831年に刊行されるに至る。

ユゴーの文学理論・ロマン主義、自由主義、グロテスク

古典主義からロマン主義へ移行していく時代の中、フランス文学の中心となっていったユゴーは古典主義を「絶対唯一の普遍的な美」と捉え、対照的にロマン主義を「歴史的相対主義(各時代にはそれぞれの文化と美があったと捉える)」として文学理論を展開していった。ロマン主義の中では、それまで古典主義において軽視されてきたエキゾチスム・オリエンタリズム・神秘主義・夢などといった題材が好まれた。社会と文学の関係を全人類の文明史にわたって考察したユゴーは、戯曲エルナニの序文などでその考えを示した。

ユゴーはこのように語っている。

芸術における自由、社会における自由、これこそが筋が通り道理に適った全ての精神が足並み揃えて目指さなければならない二重の目的である。ユゴー クロムウェル序文
自然が一連の相対立する二要素で構成されている限り、文学もまた自然と同じように作品の中に光と影、崇高とグロテスク、魂と肉体、精神と獣性を混同することなく混ぜ合わせる。同一の霊感の息吹の元に、グロテスクと崇高、恐ろしさと道化、悲劇と喜劇を溶け合わせる。これがドラム(演劇・ドラマ)である。世界は美であると共に醜であるユゴー ドラム(演劇)について

この序文はフランス文学史上重要な位置を占めていった。こうした考えには、芸術的自由への思想があり、「文学の自由」の文学運動であった。ユゴーは若き頃は王政復古派の詩人として登場するが、1830年の7月革命以降、政治的にも自由主義へ移行していく。その最中に生まれた文学が本作である。


参考文献

関連項目

 

(最終更新日:2019年4月12日)