ノートルダム大聖堂

鐘のキーワード

舞台、原作と大聖堂

ミュージカルの舞台では、大聖堂内部、外部を舞台のモデルにしている。白黒の市松模様の大理石の床、聖人の石像、バラ窓、燭台のシャンデリア、大聖堂の入り口などがモチーフとして使われている。ファサードに見える双塔の部分に鐘があり、屋上がある。ここがカジモドが暮らす鐘突塔と思われる。原作の中では、大聖堂に関する記述が随所に見られるが、3編-1章で、かなり詳しく説明されている。また、カジモドやフロローが住んでいるため、彼らのシーンにも随所に大聖堂のことが語られている。

概要

パリの大聖堂の外観

正式名称は「パリのノートルダム大聖堂(ノートルダム寺院)」(Cathédrale Notre-Dame de Paris)。フランスの首都パリにあるゴシック建築を代表する中世の建築物である。パリの中心部を流れるセーヌ川の中州にあるシテ島内に建てられたローマ・カトリック教会の大聖堂。ポワンゼロと呼ばれるパリの中心点もある。
ノートルダム(Notre-Dame 仏)とはフランス語で我々の貴婦人を意味する。聖母マリアのことである。全体的に白いことから「白い貴婦人」とも称される。聖母マリアに捧げられた聖堂である。
西正面(ファサード*)は、均衡感のある双塔をもち、中央バラ窓を中心に、尖塔アーチの扉部分などが特徴である。双塔は尖塔にせず、矩形(くけい)型のままでそのため上昇感を持たないため、ゴシック大聖堂には珍しい地上的な安定感がある。
全長127.50メートル、身廊の高さは32.50メートル、その幅12.50メートルと、中世当時ではそれまでにない壮大なスケールの建築物である。
1831年のヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートル=ダム・ド・パリ』(「ノートルダムのせむし男」)の舞台になったことは、この大聖堂が今もなお現存する一因にもなったと言われている。

*ファサードとは、建築物の正面部分にあたるデザインのこと。

建造の時代背景

現在の姿で建造が始まったのは1160年*ごろ〜1250年、最後の竣工は1345年。
1160年ごろにモリス・ド・シュリーの時代に東側の内陣から着工され、双塔部分は1250年ごろまで建設が続いた。またフライングバットレス(飛梁)と言われる聖堂を支える部分は、12世紀に現在の形に取り替えられている。

シテ島にキリスト教が根を下ろしたのは4世紀ごろと推測されており、313年にキリスト教公認を受けて以降、この島には司教が派遣された。その時代にも大聖堂は存在し、現在の場所にあったといわれている。857年にパリはノルマン人の侵略にさらされ、第一大聖堂は破壊された。その後第二大聖堂が再建され、12世紀初頭には、ルイ6世が寄付をした他、パリ伯爵や商人たちによって重要な聖堂へと成長していく。

 

現在の形の聖堂は3番目の大聖堂である。1160年に建造され始めた。身廊が1180年から、1196年には西側の梁間を除き、完成される。1200年頃に西正面ファサードの建造が始まり、1220年には「王のギャラリー」の層、1225年にはバラ窓の層までが積み重ねられ、全体は1250年に完成した。

 

*かつては1163年とされていたが、今は曖昧とされているため、こちらを記述

ゴシック建築

ゴシック建築•ノートルダム大聖堂内のアーチと尖塔アーチ

着工された時代はロマネスク様式時代であったが、大聖堂はその当初から新しい試みも交えて、その過渡期でゴシック様式を完成させていった建築物の一つである。ゴシック建築の特徴は、巨大な姿で天空に向かってそびえ立つ壮麗な大聖堂である。ファサードに荘厳な双塔、石造建築、高い天井とアーチ群、重厚なステンドグラスなどをもつことが多い。ノートルダム大聖堂の双塔が矩形になったのは、ロマネスクとゴシックが混じり合ったからだと言われている。ゴシック様式の主な特徴は、リヴ・ヴォールトと呼ばれる円形状の天井、頭が尖っている形の尖頭アーチ、石造りを支える強固なフライング・バットレス、それによって可能になった美しく広さのあるステンドグラスである。大聖堂(カテドラル)とは大きな聖堂という意味で、フランス語ではCathédrale。12世紀頃から急激に発展する都市には庶民が集まり、宗教界をも変えていった。大都市に集まる庶民を集めるために作られた大聖堂はその都市の象徴として、庶民の力に支えられて建造されていった。人々の信仰を手助けするだけでなく、日常生活にまで携わっていった。12世紀後半〜13世紀にかけてゴシックの時代というのは庶民に目を向けられていた時代と言える。ノートルダム大聖堂はこうした大都市の動きを先取りした形で、見事に具現し、建築や彫刻の中に表現しているのである。

  • 薔薇窓
  • 鐘(今後追加予定)
  • ゴシック建築(今後追加予定)
  • 聖人像(今後追加予定)
  • ガーゴイル(今後追加予定)

 

パリの歴史と大聖堂

こうして建造された大聖堂は、現在もパリの象徴として建っているが、その歴史は平坦ではない。度々フランス史の重要な局面で出てくるのである。例えばジャンヌ・ダルクの復権のための裁判が行われた場所である。また、16世紀の宗教革命の時代にはフランス全土もカトリック派とユグノー派(またはプロテスタント)に分かれフランスブルボン王朝が始まるきっかけとなる。大聖堂はこうした宗教革命という大きな時代の流れにも晒されてきた。そして、18世紀にフランス革命が起こるのである。1789年のフランス革命で、王家がパリを捨てて逃亡したことから、市民の怒りは大きくなった。その余波がノートルダム大聖堂にも押し寄せたのである。次々に破壊が繰り返され、荒廃の一途を辿る。西正面を飾っていた彫刻群に多大な損失を与えた。特に王のギャラリーの28体の彫刻は全て取り除かれた。1804年には、ナポレオンが戴冠式を行ったことで、一時的に復興するきっかけとなるが、1830年の七月革命では、再び矢面に立たされ、市民らの暴動によって、破壊の対象となった。1831年にヴィクトル・ユゴーの「ノートル=ダム・ド・パリ」が出版されたことにより、国民全体に大聖堂復興運動の意義を訴えることに成功し、1843年、大聖堂の全体的補修を決定した。(→以降、原作と大聖堂の関係性へ

 


参考文献

関連項目

 

(最終更新日:2019年4月12日)