活版印刷術(ヨーロッパ)

ノートル=ダム•ド•パリと活版印刷術

ミュージカルでは語られていないが、活版印刷については原作で深く触れている。1編からすでに言葉の端々で言及されているが、5編-2で、詳しく語られる。活版印刷術による出版物が人類にもたらした栄光は計り知れないが、それと同時に多くの歴史的事件の背景にもある。本作の現代にもつながる情報メディアへの造詣の深さを知ることができる。

概要

世界で初めて活版印刷術で刷られた42行聖書の冒頭ページ

活版印刷(かっぱんいんさつ)は、凸版印刷の一種で、活字を並べて文章にした活版、組版を作り、それに塗料を塗って印刷すること。また、その印刷物。鉛版・線画凸版・樹脂版などの印刷も含めていう。活版刷りともいう。凸版の木版で一枚板に刷られたものは中国で8世紀後半から登場する。活字自体の発明も重要であり、活字を使用した組版による印刷は11世紀ごろ。最古の金属活字は14世紀の高麗にある。木版から鉛版の活版印刷に進化していった訳ではなく、15〜19世紀の間はどちらも並行して活用されてきた。鉛合金の活版印刷は多くの本を素早く大量に製造できたことから重要視されていったが、木版も1枚刷などでは簡易的に印刷できたことから利点があった。木版活字は、耐久性がなく、労力、費用ともにかかった。鉛合金を用いた活字で、アルファベットを使用するヨーロッパでの活版印刷の登場は、多くの文字を使用するアジア圏の印刷よりもスタンダード化していく。字数が26文字前後の活字で構成されるために利点があり、同じくアジア圏からの高質な紙文化の到来もあり15世紀以降世界中に広まっていくきっかけとなった。

活版印刷工程

ここではグーテンベルク式のローマ字を用いた欧文印刷、鉛合金を用いる活版印刷について解説する。
鉛合金で鋳造された大量の活字が作られている。ここから植字工が1字ずつ拾いながら行間や行末を整えながら植字棒に詰めていき、組版に置いて順序よく追加していく。1ページ分の植字が終わったら、組版の活字にインクを塗って紙を起き、校正するために簡単に印刷する。校正を繰り返したら、組版を印刷機に収めて固定し、版面にインクをのせ、紙を当てて、レバーを引くと均等に圧力がかかる木製の印刷機で版押する。印刷された用紙は1日ほど乾燥させ、製本する。
15〜19世紀頃までは以上のようなグーテンベルクが発明したものとほとんど不変のままだった。産業革命以降、印刷機は木製から鋼鉄製になり、ネジ式レバーは油圧式となった。1814年頃に平圧式から輪転式(素早く大量に印刷することが可能な方式)の印刷機となる。1838年以降には自動活字鋳造機が生まれ大量の活字を植字できるようになり、より高速化されていった。

手書き写本の時代

ヨーロッパでは15世紀前半のドイツで木版印刷(ザイログラフィー)も実践されていったが、それまでの間、基本的には本は写本、つまり手書きであった。修道院が中心となり、聖書、詩篇、福音書などが生産されたが、中でも装飾写本は豪華で美しく作られた。羊皮紙が用いられ、写字生が書いたという。12世紀以降は高位の聖職者を養成するために大学が生まれ、書籍業者が店を出し、神学書、三学科(文法、修辞学、論理学)や四学科(算術、幾何学、天文学、音楽)の教科書が必要となり制作していった。アーサー王物語をはじめとするロマンスや伝記物の写本が生まれるのは、14世紀以降である。ヨーロッパの手書き写本とは基本的に羊皮紙といった動物の皮をなめしたものが用いられた。また写本の文字は古くは行書体、13世紀ごろにはロマネスク体へと移行していった。そのため、本とは重くて分厚いものとなっていった。特に宗教色の強い本は、豪華な装飾写本となり、読書というより鑑賞のために作られた。

グーテンベルクの活版印刷の発明

慶應義塾大学所蔵の「グーテンベルク聖書」

ヨハネス・グーテンベルクが近代式の活版印刷術を発明した。グーテンベルクに関する情報は多く残されたわけではなく、長年の議論となっていたが、近年では、マインツのグーテンベルクが発明したということで意見が一致している。1870年代頃までは、オランダにその発明の起源があったとされた。オランダにはドナトゥス文法書といった木版活字などで刷られたプリミティブな印刷物があった。現在ではそれらはグーテンベルクの発明以降の1460〜1480年代に印刷されたものとされている。活版印刷が完成に至るまではアジア圏からもたらされた高品質な紙で、羊皮紙より簡単でかつ軽い素材を手に入れたこと、インクの改良、また鉛合金や木版で活字を実現するなどの中世当時の技術の充実もあった。
グーテンベルクはドイツのライン河にある都市・マインツで活版印刷をはじめたと伝わっているが、近年彼の裁判記録からのみ、その素性を知ることができる。彼はマインツで金属加工の腕を磨き、貨幣鋳造職人としてその力を認められていた。1434年〜1444年以前にはシュトラースブルクに移り住み、そこで鏡職人として高く評価されていた。印刷術を発明していく際、その内容を秘密にした。彼の発明は当時妖術といわれていたこと、彼と共同者たちの間の問題などがあったことから秘密主義になったともいわれる。マインツに戻り、1450年代頃鉛合金と活字を用いた活版印刷術を完成させていった。マインツの実業家であったヨハン・フストと共に共同経営者として印刷所の運営を開始した。シェーファーという写字生経験のある印刷工と共に最初の活字書体などを固めていった。その後フストが貸付した借金の利子を支払わないグーデンベルクに対して訴訟を起こし、完成間近の印刷物と、シェーファーと印刷所をフストに取り上げられた。この印刷物は1455年に完成した「四十二行聖書」であった。印刷物とはいえ、この聖書も写本と負けず劣らず時間がかかって重たいものであったが、活版印刷の正確性と、量産体制ができることは当時非常に画期的なことであった。評判となり、フストの印刷事業は好調となる。グーテンベルクもこちらのフストの印刷所にも従事しながら、自宅に印刷所をもち、「三十六行聖書」や、「カトリコン」などを出版した。
1462年、アドルフ2世による略奪を受けたマインツは、武力闘争に発展し、その結果1244年以来保持していた市民の自由特権を奪われることとなる。フストの印刷所も、グーテンベルクの印刷所もその時に破壊されたり、家が焼失したりした。この事件の結果、マインツの印刷技術はドイツ各地に伝わることとなり、程なくイタリアやスイスにも伝播することになった。

時代と活版印刷術

イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、1620年の著書に学問、戦争、航海に影響を与えたものとして、印刷術、火薬、羅針盤を中世の三大発明であり、大変革であったと著した。大砲や鉄砲が与えた戦争への影響、コロンブスの発見によってアメリカ大陸が発見なども含めて、大量の情報伝達を可能にするきっかけとなったこの活版印刷術の存在は大きい。特に、宗教改革などで印刷術の存在価値は大きくなっていった。
グーテンベルクと一緒に働いたシェーファーは、1449年頃パリで法律を学びながら写字生で生計を立てた。その後マインツで活字デザインを鋳造した。シェーファーは書籍印刷、販売事業者としてパリ、リューベックなど販売拠点を持つようになる。修道院を中心にしていた写本技術は衰退していく過程となるが、修道院には印刷所も置かれていった。こうして仕事を奪われた写字生の一部は、活字デザインの担い手にもなっていく。
古代ギリシアやローマの古典書が出版されていったことはルネサンスにも影響を与えた。中世から近代文明の発展へと導かれたのは印刷術の功績といって過言ではない。

出版社と活版印刷術の発展

印刷術の黎明期の出版史に金字塔を打ち立てた一人として、ヴェネツィアの学者アルドゥス・マヌティウスが挙げられる。彼はギリシア・ローマの古典の出版に携わった。1490年に印刷所を開設し、1494年に最初の印刷本を出版した。彼が学者であったことで彼の出版物の意義はより一層深くなったと言える。彼は多くの購買者層をターゲットに書籍の小型化、小型化のために活字体を改良した。こうした小型本化の精神は、現在にも残る世界の出版社へと受け継がれた。アルドゥスの本には錨にイルカがまとわりついている意匠がつけられた。ローマ時代のコインから由来したものと思われるが、「錨は仕事の前段階の熟慮を意味し、イルカは仕事を完遂する速さを意味する」と解釈された。アルドゥスの後世に残るような意欲的な出版物への意気込みは、19世紀にイギリスのウィリアム・ピカリングなどでこの意匠が採用するなどして、受け継がれていった。
もう一人、イギリスのキャクストンは、ブルージュから活字と印刷機を持ち帰り、イギリスで印刷業をはじめた。企業家としての才覚があり、資金、上流階級の嗜好に合う出版物を立案、販売計画を立てた。宣伝のビラまで印刷した。黎明期の印刷業者のほとんどが聖書などのラテン語、ギリシア語等を中心に出版していた時代に、英文学の傑作を世に送り出した。その後ルネサンス期にキャクストンの印刷業はド・ウォードに受け継がれ、彼は書籍の小型化、細かい活字を実現し、廉価な本を世に送り出した。宗教改革などを期に、修道院や宗教、政治のためにあった印刷業は、その後自国語の聖書などを出版していくようになると、市民にも広がりを見せていく。そうした中で印刷業者が一財産を築くなど、印刷術、印刷業は発展をみせていった。


参考文献

関連項目

 

(最終更新日 : 2019年4月14日)