魔女裁判(魔女狩り)

舞台、原作と魔女裁判

聖職者であるフロローによって、ジプシーのエスメラルダが魔女であり魔術を使うとされた。原作ではフィーバスの殺害と魔術などの罪を被せられ、パリの裁判所によって絞首刑と判断される。(原作でもフィーバスは生きている)舞台ではフィーバスを刺した罪、ルイ11世が許可を出し命令が下り、エスメラルダは火あぶりの刑となる。

概要

1490年代に描かれた魔女のイメージ

魔女裁判、魔女狩り(まじょがり英: witch-hunt)とは魔女とされた被疑者に対する訴追、裁判、刑罰、あるいは法的手続を経ない私刑等の一連の迫害を指す。ヨーロッパでは、古代より悪魔や魔術が邪悪とされる概念があり、その概念とキリスト教文化が都市化していく中で異端者とを結びつけた。魔女という概念は12〜13世紀に存在したカタリ派やワルド派、ユダヤ教といったその他の宗教、つまり、カトリックを主体としたキリスト教文化圏の周縁者を排他することから生まれた。悪魔と契約してキリスト教社会の破壊を企む背教者を異端とし、14世紀末まで弾圧がつづいた。魔女裁判が活発化するのは15世紀前半で、特に熱狂的に流行したのが、16世紀後半から17世紀にかけてである。現代では、集団ヒステリー現象であったと考えられている。キリスト教会が主導して行われたとされてきたが、1970年代以降の研究から、近世の魔女迫害の主たる原動力は教会や世俗権力だけでなく、民衆の側にあったという見解がある。15世紀から18世紀までに全ヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑されたと考えられている。日本語では「魔女」と称されるため誤解されやすいが、犠牲者の全てが女性だったわけではなく、男性も多数含まれていた。

魔女狩りのきっかけ

1613年に描かれた「魔女のサバトの描写図」

10世紀ごろから西ヨーロッパ各地はカトリックを中心にキリスト教化する中でカタリ派、ワルド派、ユダヤ教、といった信徒を治安問題や政治問題を理由に異端として弾圧。13世紀にグレゴリウス9世の時代、各地の司教に異端審問の権限を与えた。これが異端審問官となっていく。司教法令集(プリュム修道院長のレギノ著・906年)、教皇勅書(13世紀)などに書かれた異端審問の方法をもとに、判決を下していった。
西ヨーロッパで11世紀〜12世紀にかけてキリスト教が各地に浸透し、教会組織と教皇権が確立した。組織化、都市化が進む一方で、異端審問制も確立されていった。1337年の英仏百年戦争、1348年以降のヨーロッパ圏の総人口3分の1の命を奪った黒死病の流行など危機と不安に襲われた社会の元で終末思想などから、社会周縁者への排他の時代が進んでいったとみられる。カタリ(ガザリ)派の教義は正当カトリック教会側から弾圧を受けており1209年ごろから14世紀初頭までにほぼ壊滅したと言われている。
魔女についての記述が顕著となるのは1437年の著書「ガザリ派の誤謬(ごびゅう)」の頃からである。内容は、「悪魔によって堕落したものが乱交の宴のために集まった。集会に行くときは棒を使って空中を飛び、黒猫の姿で現れることもある。人畜に病死をもたらし、幼児の脂肪を軟膏にして悪魔崇拝をする…」という。このイメージが「魔女」となったと考えられている。この集会は「魔女のサバト」とも呼ばれ、1430年代の魔女狩りの兆しを示す。前述の通り、14世紀にほぼ壊滅状態にあったことから、この著書の示すガザリ派とは実質的な意味の異教徒をさしているのではない。このころから、魔女狩りは始まっていったと考えられるが、この内容から察して真実味の無い内容も含まれ、ほとんどは伝聞情報だった。しかしその内容は確たる証拠とされ、こうした集まりを開いた異端者を処刑していったことが魔女狩りの始まりだった。
「教会法集成」の「司教法令集」にある魔女の飛行や悪魔と邪悪な女性に関する記述が存在し、こうした内容が異端審問の正当性の背景となっていく。初期に最も大きな影響を与えたのはヨハネス・ニーダー著「蟻塚」で、キリスト教信仰の正しいあり方と蟻の生態とを民衆の道徳的教化を目的として著された。その中で魔女のサバトと魔術についても言及されている。こうした著書の影響で、異端審問と魔女狩りは結びついていった。

魔女、魔術師を本当にみたのかという論点と女性蔑視

異端審問官が行う拷問と尋問によって被告から引き出した自白と、ガザリ派の誤謬などで記されたステレオタイプ化した告発を元に刑罰を決められていった。これは現在の社会では創作というが、当時の裁く側の人々は自白や告発の内容が現実であり、無意識的に想像上の出来事を真実としていった。これこそ魔女信仰を支える心性だった。審問官も、またその周りも罪状の事実は重要なことではなかった。
悪魔と魔術の存在を否定も肯定もできない中世の時代だった為に反証も難しく、こうした迷信を疑わない人が多かった。犠牲者は女性ばかりではないが、女性の排他の原因には父権社会と、聖母信仰があった。旧約聖書のイヴが誘惑に負けたことなどが女性蔑視の根本的な考えで、イヴの罪を帳消しにした聖母マリアや聖女のみが称賛された。また女性が嫉妬などから魔術に陥りやすいと考えられていたなど、ここにも迷信的な認識錯誤が存在する。

魔女裁判の書籍と裁判

裁判の形態は、密告通報があった場合異端審問官が赴き、拷問も含めた尋問を実施し、その地域の形態で判決した。弁護が可能な地域は被害者に弁護人がついた。
先にも記述した1437年〜38年のヨハネス・ニーダー著「蟻塚」は5巻に多くの魔女記録と、審問についてが書かれている。全体では民衆の道徳、信仰についてなどが書かれた書物で写本、印刷され広く広まった。
1486年、ドミニコ会のハインリヒ・クラーメル(インスティトリス)著「魔女の槌」の影響力は、魔女狩りの歴史の中では重要視されるだろう。彼はその前に「反魔女論考」とした魔女教書を書き、司教法令集とあわせて異端審問官として判決した。その拷問をはじめとする審問が厳しすぎて、裁判で魔女教書を否定された。これをきっかけにこの魔女教書を9ヶ月ほどで書き直した。彼の魔女教書が「魔女の槌」とされ、印刷されて広まった。1523年、ドミニコ会のバルトロメオ・スピーナ著「魔女探求」も影響は大きかったようである。ヨーロッパ各地でこうした魔女教本が出版された。地域差もあり、ローマでは教皇庁が審問を実施していたため、医師などが裁判に参加した。そのためイタリアでは多くが鞭打ちで済んだ。またオランダ、スペインという地域ではもともとカトリックだけでなく異なる宗教が信仰されていたことから魔女裁判の例は少ない。魔女論争は肯定ばかりでなく、もちろん反論もされている。北イタリアのフランシスコ会の神学者カッシーニは、1505年の著書「魔女論」で、「魔女の槌」の批判を示した。ボローニャの法学者アルチャーティはサバトに参加したというのみの罪状で裁かれていることに対して批判。哲学者コルネリウス・アグリッパは1518年ごろから魔女裁判弁護に尽力した。冷静沈着な反論、異端審問官への苦言などが残され、また彼は当時の自然科学への造詣も深かったようで、的確な反論で被害者を釈放した。ただし、アグリッパのこの功績は1580年ごろには「魔女の親方」とされていく。
1520年代に入ると宗教改革の波があり、一時的に魔女裁判がおさまった時期がある。しかしルター派も魔女論争には肯定的だったことから、再び熱狂していくことになる。というのもルター派の広まったきっかけには印刷術があった。その為印刷術を使ってどのように民衆に広めていくかはルター派はよく理解していた。文字の読めるものはまだ少ない時代であり、魔女のイメージや迷信は絵やイラストで視覚化され木版などで刷られた。また書籍の挿絵なども含めて、熱狂的に広まっていくのである。ルネサンス期の到来のために、少しずつ自然科学や哲学といった思想も成長してきたにも関わらず、16世紀〜17世紀のバロック時代に、魔女裁判は猛威を振るう。フランスでは王権を持つブルボン朝アンリ四世が魔女裁判実施命令を下した。高等法院に対しての権力顕示をアピールしたとも言われている。ブラールで行われた魔女狩りは80件以上と大規模なものになった。フランスの高等法院評定官ピエール・ド・ランクルは、バスク人を祖先に持ちながら、バスク人を対象に魔女狩りを率先した。バスク人の習慣、慣習といったものだけでも悪魔化、魔術化していき、魔女裁判を進めた。こうしてフランスでは国家と評定官が同一化するような形で、魔女狩りの例を増やしていった。国家的な統一を進めていたバロック時代、宗教革命と共に、キリスト教文化をより民衆に浸透させようという考えのもとで、信仰を広めていく。その過程で魔女の概念も民衆に一気に広まっていった。中世社会より近代社会に近づいた時代にも関わらず、より魔女裁判がさかんになったのは、都市化したそれぞれの地域の同一国家精神のようなものが養われていったからからもしれない。印刷術とともに、熱狂はさらにエスカレートしていった。教会法廷の扱う魔女裁判はやがて減少し、魔女裁判の最盛期には世俗裁判で行われるものが大半となった。15〜16世紀は裁判権と捜査権の分離がまだ黎明期にあった時代だったため、教皇が任命した異端審問官の主導であったことは確かだ。しかし、16世紀以降は世俗裁判所によって多くの魔女裁判が実施された。この時代、ドイツの一部の村では組織が結成され、住民を代表して魔女を告発するだけでなく、証人を尋問したり、領邦裁判所に圧力をかけるなどして魔女迫害を推進した。イングランドでは国王の任命した職業的裁判官が各地方の巡回裁判所で魔女裁判を行った。
魔女の処刑法は絞首刑か火刑が主で、他の方法も用いられた。カトリック地域では火刑の例が多く、目的は異端者の肉体的痕跡の抹消であった。イギリスでは絞首刑が採用された。処刑に民衆は見物に来た。こうした処刑は娯楽の一面があったとされている。

魔女裁判の衰退

16世紀後半から17世紀にかけ、魔女狩りが活発化する一方で、宗教改革、哲学、自然科学という分野が進むに連れ、寛容と自由思想などの動きは西欧の近代化に大きく影響を与えた。1630年ごろからは徐々に衰退しており、18世紀中ごろには、魔女裁判の熱狂はおさまっていった。まず最初期の流れとしてはオランダのアルミニウス派の流れである。神学者ヤコブス・アルミニウスから始まるオランダのこの派閥が1618年ごろに、宗教的迫害は、「人間の自由」と「経済的繁栄」に損害を与えるとした。オランダ共和国はその頃カトリックよりもプロテスタント系が台頭していたが、カトリックを含めた宗教寛容は、経済にも影響を与えるとした。次にルネ・デカルトの哲学の登場である。間接的ではあるが極めて重要なものであった。1600年代初頭にフランスにてスコラ哲学等の学問に精通するが、彼はこれに不満を覚えた。明証性ゆえに数学の重要性、それに基づく自然法への関心から、魔術・霊の実在は夢の計略だと述べた。オランダ・カルヴァン派の牧師バルタザール・ベッカーは、1691〜93年の著書「魔法にかけられた世界」で、魔女裁判批判書を出版した。デカルト哲学に影響された彼のこの本が与えた影響は大きかった。観察と調査と自然をベースとした彼の観点は魔女や魔術の存在をペテンとした。こうした流れは特に最も魔女裁判が多い地域の一つであったドイツでも影響を与え、その後の「啓蒙化」にも繋がっていく。イングランドの哲学者フランシス・ベーコン、イタリアのガリレオ・ガリレイの存在も大きい。特にベーコンは、魔女信仰については1605年「学問の進歩」、1627年の「森の森」の中で語っており、自然の驚異は認め、魔術そのものの事実根拠と証拠が存在すれば認めることを前提としながら、客観的な観察と根拠の必要性を説いた。ガリレイの天文学、物理学と自然研究への観点がその後の自然科学と近代化に与えた影響は大きく、そうした流れの中で、徐々に魔術と迷信は否定されていった。こうして徐々にではあるが、魔女裁判は衰退していったのである。中世より始まった魔女対策法は各地で廃止されていったが、1730年代頃まで続いた。


参考文献

  • wikiペディアー魔女狩り
  • 「魔女狩り西欧三つの近代化」ー黒川正剛著/2014年発行

関連項目

 

(最終更新日 : 2019年4月17日)